大企業の内定通知書と、障害年金2級の証書。――ASD・ADHD・双極性障害と生きた30年間

大企業の内定通知書と、障害年金2級の証書。――ASD・ADHD・双極性障害と生きた30年間

今日のブログはみったんです。

内定通知書と障害年金証書

――ASD・ADHD・双極性障害を抱えた私の生存記録

第1章:過剰適応と幼さの代償

――白衣に取り押さえられた手と、眩しすぎる校庭

  1. 血だらけの手と、三人の看護師

私の記憶の最も深い場所にある医療の原風景は、「血」と「白い服の大人たち」の感触だ。

五歳の頃、私は眠っている間に激しい意識喪失を起こし、救急車で病院へ搬送されるという経験を二、三度繰り返した。一度発作が起きれば、意識は三十分以上も戻らない。けたたましいサイレンの音も、ストレッチャーの揺れも、幼い私の意識には届かなかった。

目が覚めるのは、いつも見知らぬ病室のベッドの上だった。

ある朝、目を覚ました瞬間、自分の腕を見て息を呑んだ。手首から先が、真っ赤な血で染まっていたのだ。

夢の中で激しく暴れた拍子に、血管に刺さっていた点滴の針がずれ、血液が逆流してシーツや手を赤く染め上げていた。何が起きているのか理解できずパニックを起こす私の上に、三人の看護師が覆いかぶさり、小さな体を力ずくでベッドに押さえつけた。

「暴れないで! じっとして!」

飛び交う鋭い声、皮膚に食い込む大人の手の圧力、視界を塞ぐ白衣、そして鉄の匂い。

幼い私の脳は、この時すでに「自らの意志では制御できない電気的な暴走(てんかん)」を胎動させていた。それは単なる体調不良ではなく、いつ足元から床が抜けて暗闇に叩き落とされるか分からない、神経の時限爆弾と共に生きる人生の幕開けだった。

  1. 暴力としての「冷気」と、終わらないメルトダウン

発作の恐怖と並行して、私の世界は常に「暴力的な刺激」に満ちていた。

多くの人にとって日常的な空間であるスーパーマーケットが、私にとっては凍てつく拷問部屋だった。生鮮食品コーナーの冷気は、皮膚を刃物で撫でられるような耐えがたい痛覚として刺さり、足を踏み入れるだけで全身が硬直した。

そして何より、「光」が凶器だった。

小学校の頃から、そして中学校に上がっても、体育の時間に校庭へ出るたびに太陽光が網膜を焼き尽くすように突き刺さり、目を開けていることすらできなかった。周囲の生徒たちが平然とボールを追いかけている横で、私一人だけが顔を歪め、光の暴力から逃れるように視界を細めて耐え忍ぶしかなかった。

小学校や中学校の休み時間、教室の喧騒に耐えられなくなると、私はいつも自分の机の上に突っ伏していた。

冷たい机に顔をうずめていると、周囲のクラスメイトたちの騒ぎ声や笑い声が、輪郭を失って奇妙な音へと変貌した。言葉としての意味を失い、教室全体がもやのような、ふわふわとした謎の音の塊となって自分の体を包み込んでいく。

自分と世界との境界線がぼやけ、どこか遠い異世界へトリップしているような感覚。それは、感覚過負荷で焼き切れそうになった私の脳が、外の世界を遮断するために張っていた、無意識のバリアだったのかもしれない。

当時の私には「感覚過敏」という知識などない。ただ世界が、自分に対してだけ過剰に攻撃的だと感じていた。

教室や人混みの中で、私はそれらの痛覚を必死に押し殺し、顔に出てしまわないように耐え続けた。だが、子どもの小さな脳が耐えられるエネルギーには限界がある。

限界まで感覚刺激を耐え抜き、学校から帰宅した瞬間、張り詰めていた神経の糸が完全に弾け飛んだ。

一度癇癪を起こせば、もう自分でも止められない。床に転がり、涙と鼻水で顔をぐちゃぐちゃにしながら、叫び、喚き、二時間ものあいだ泣き続けた。

親が何を言っても、背中をさすっても、脳内に渦巻く過負荷の嵐は収まらない。外で「普通の子ども」を演じるために支払った莫大なコストを、家の中で二時間泣き叫ぶという形で、幼い体は強制的に排熱していたのだ。

小学校高学年を過ぎる頃には、周囲から「変わった子」と囁かれ始め、中学では「不思議ちゃん」というラベルを貼られた。人と違うことは痛いほど分かっていたが、どうすれば彼らと同じになれるのか、その取扱説明書はどこにもなかった。

  1. 大人が隠した宣告と、素直さという武器

「あの子は性格があまりにも幼すぎます。受験戦争の過酷なプレッシャーに耐えられるほど、精神が大人になっていません。非常に心配です」

中学時代、通っていた塾の先生は、私のいない面談の席で、親に向かってはっきりとそう告げていた。

子どもである私の前では決して口にしなかった、大人たちの本音。

先生の目から見れば、私は周囲の同級生のように世渡り上手でもなく、空気を読むこともできず、精神年齢が実年齢にまるで追いついていない「脆い子ども」にしか見えなかったのだ。この厳しい競争社会の入り口で、真っ先に心を折られて脱落するだろう――それが、大人たちが下した冷静な評価だった。

だが、その予測は外れることになる。

私を中央大学高等学校への合格へと押し上げたのは、皮肉にもその宣告された「幼さ」そのものだった。

当時の私は、良くも悪くも驚くほど「素直」だったのだ。

周囲の同級生のように、適当に手を抜いたり、要領よく遊んだりする狡さを持ち合わせていなかった。「これをやりなさい」と指示された膨大な課題を、疑うことも反発することもなく、親や先生に言われた通りに何時間も机に向かってやり続けた。

授業中は一言一句聞き漏らすまいとノートを取り、決められた勉強のルーティンに没頭した。親に褒められることが、当時の私の世界のすべてだった。

相手の意図を深読みできないASDの素直さと過集中が、「言われた課題を忠実にこなす勉強」に噛み合っていた。

精神は幼いまま、だが言われた通りに机に向かい続ける。

そのいびつなバランスのまま、私は高校へと進学していった。

第2章:壊れていくレール

――孤立、学年ビリ、そして暗闇の高校時代

  1. 空回りする衝動と「気持ち悪い」の壁

私にとって「人と仲良くなること」は、いつだって暗闇の中で手探りをするようなものだった。定型発達の人たちが自然と身につけている「適度な距離感」や「会話の文脈」というマニュアルが、私の頭の中には最初からインストールされていなかった。

中学に入学する前のことだ。学年全員の苗字と名前が一覧になったプリントが配られた。

私はそれをじっと見つめ、持ち前の記憶力で全員のフルネームを完璧に暗記した。「みんなの名前を覚えておけば、きっと仲良くなれる」「驚いて喜んでくれるはずだ」という無邪気な一心だった。

そして入学初日の教室で、覚えたばかりのクラスメイトの名前を次々に披露した。

返ってきたのは、賞賛ではなく冷たい沈黙だった。

「……なんか、あいつ気持ち悪い」

良かれと思って発揮したASD特有の記憶能力は、周囲にとっては気味の悪い異常性としてしか映らなかった。相手がどう受け取るかという想像力が、私にはすっぽりと抜け落ちていた。

高校に入学した時も、その衝動とズレは止まらなかった。

初めて買ってもらったスマートフォンを手に、「今度こそみんなと友達になりたい」と舞い上がった私は、自分の名前や連絡先を入れたオリジナルの名刺を自作し、学年中の生徒たちに配り歩いた。高校生が学年中に名刺を配る――その行動がどれほど異様かなど、当時の私には微塵も分からなかった。

入学式当日には、ADHDの不注意が炸裂した。

緊張と興奮の中で教室に入った私は、あろうことか自分の席ではなく、まったく別の生徒の席に平然と座っていた。本来そこに座るはずだったクラスメイトは、見知らぬ新入生が自分の席を占領しているのを見て立ち尽くしていた。それでもその子は心優しく、戸惑いながらも私を責めずに頑張って話しかけてくれた。

私の高校生活は、そんな奇妙なズレと空回りから幕を開けた。

  1. 学年最下位の転落と、途切れた電波

高校に入学した私を待っていたのは、急激な転落だった。

「附属高校に入ったんだから、もう勉強なんてしなくていい」

「中学の三年間だけ頑張れば、あとは遊べるから」

周囲が口にするそんな言葉を、私は一言一句、文字通りに真に受けてしまった。

「そうか、もう勉強はしなくていいんだ」

その言葉の裏にある「受験勉強のような猛勉強は不要だが、留年しない程度にはやるべき」という大人の建前やニュアンスを汲み取ることができない。机に向かうのを完全にやめた私の頭に入り込んできたのが、手に入れたばかりのスマートフォンだった。

画面の向こうから流れてくる刺激に、ADHDの脳は瞬く間にハイジャックされた。食事中も夜中もスマホを手放せない、完全な依存状態。

結果は残酷だった。最初の定期テストで、私は全校生徒159人中、ダントツの最下位(学年ビリ)を叩き出した。

危機感を抱いた親によってスマホは即座に取り上げられ、代わりに渡されたのは連絡機能しかないウィルコムのPHSだった。

それは、私からわずかな「社会との接点」を奪い去った。当時、高校生たちの人間関係はLINEのグループトークへと移行していた。放課後の雑談も、輪の空気も、すべてはLINEの中でリアルタイムに作られていた。

ウィルコムに変えられた私は、クラスメイトたちが盛り上がる輪に物理的に参加できなくなった。教室でみんながスマホを見て笑い合っている輪の外側で、私は完全に置き去りにされた。

  1. 教室で溢れ出す涙、過食嘔吐、親の涙

成績の急落と人間関係の孤立は、私の精神を容赦なく破壊していった。

文化祭の準備期間、クラスメイトたちがお化け屋敷を作ろうと楽しそうに群がっている光景が、苦しくてたまらなかった。どうしてもその輪に入ることができない。疎外感と息苦しさに耐えかねて、私は準備をサボり、どこかへ逃げ出すことしかできなかった。

授業中、何の前触れもなく突然、目から涙がボロボロと溢れ出して止まらなくなることが増えた。

教科書を見つめているだけで息が詰まり、涙が机を濡らす。居たたまれなくなって教室を飛び出し、保健室のベッドに駆け込んで震えていた。

家でも地獄が待っていた。

中学までは言われた通りに勉強し、いつも親から褒められていた。しかし高校に入ってからは成績も最悪で、私の生活は荒れ果てた。

ストレスから過食嘔吐が始まり、夜中に食べ物を詰め込んではトイレで吐き戻した。非行にも走った。

かつて自慢の娘だったはずの私が崩れていく姿を見て、親は私の前で何度も泣いた。

「どうしてこうなっちゃったの……」

泣く親の姿を見るたびに、自分の存在そのものが罪であるように感じられ、自己肯定感は完全に粉々に砕け散った。

  1. 暗闇の中の衝動と、言いなりの進路

メンタルは歩くことすらできないほどの鬱のどん底に落ちていた。

「死にたい」「消えてしまいたい」という思考が頭の中を一日中支配していた。

誰にも相談できず、助けを求める声の上げ方も分からなかった。寂しさと衝動から、見知らぬ大人の男性に体を売ってしまったこともあった。心も体も削り取られ、自分がどこに向かって生きているのか、生きている意味が何なのか、何ひとつ分からなかった。

それでも、現実の時間は進んでいく。

「このままでは留年になる」

「中央大学に内部進学すらできなくなる」

学校や親からそう突きつけられた。

私は周りに合わせるように少しずつ勉強を再開した。高校受験の時のように情熱を持って机に向かったわけではない。ただ、「留年」という破滅を避けるために、周りのペースに合わせて最低限の勉強をこなした。

高校の評価は合計点で競うシステムだったため、初っ端のビリからはなんとか巻き返し、最終的には法学部のようなトップ学部には届かないものの、それなりに学部を選べる位置までは成績を持ち直した。

大学の進路を選ぶ時、私は「商学部会計学科」を選んだ。

だがそこに、「将来は会計士になりたい」といった強い意志や希望があったわけではない。

「中央大学の中では、法学部に次ぐ看板学部だから」

親からそう言われ、私はこれまでと同じように、親の言うがままにその学科を選んだ。

自分の頭で未来を選び取る気力など、とっくに残っていなかった。

心に深い傷と暗闇を抱えたまま、私は辛うじて高校を卒業し、中央大学のキャンパスへと流れるように足を踏み入れることになった。

第3章:二つの通知書

――躁の大学生活、父親と挑んだ就活、そして22歳の年金証書

  1. 躁の幕開けと、テニスコートの記憶

高校時代の暗闇を辛うじてくぐり抜け、私は中央大学商学部会計学科へと進学した。

大学一年の春、私の心身を支配したのは、これまでの深い鬱とは真逆の激しい躁状態だった。世界が急に明るく見え、万能感と衝動的なエネルギーが体を突き動かした。だが、そのエネルギーは長くは続かず、学年が進むにつれて躁の波は引き、大学三年を迎える頃には、再び鉛のような重い疲労と気分の落ち込みが私を捉え始めた。

過食嘔吐は、高校から大学、そして社会人一年目になるまで、形を変えながらずっと私の影のようにつきまとっていた。それでも、大学三年を過ぎる頃から少しずつその頻度は落ち着き始めていた。

人間関係は、決して器用に広げられたわけではない。

それでも、私の人生にはかけがえのない友人がいた。中学時代、テニス部でダブルスのペアを組んでいた親友だ。その子とは大人になった今でも一緒に旅行に行くほど、細く、でも確かな絆が続いている。高校時代に私を救ってくれた親友とは大学での体調悪化で疎遠になってしまったが、大学時代に出会った当時の恋人や、限られた友人たちが私の手を握っていてくれた。

中学、高校とテニスを続け、大学でもサークルに入っていた。だが、決して立派な選手だったわけではない。

ADHDの不注意から遅刻ばかりしていた。本来なら遅刻すれば連帯責任でコートの周りを走らされる厳しい部活だったのに、なぜか顧問は私だけ走らせなかった。「あいつは顧問のお気に入りだから甘やかされている」と周囲から陰口を叩かれたこともあった。それでも、コートで体を動かしている時間だけは、頭の中の雑音から少しだけ離れることができた。就活の場では、その「部活を続けてきた事実」が、面接官の目にバイタリティとして映ったに過ぎなかった。

  1. 父と作った言葉、クローバーでの出会い

大学三年、いよいよ就職活動という壁が目の前に立ちはだかった。

だがこの時、私の脳はすでに過剰適応と気分の乱高下で限界を迎えており、自らの頭で将来を論理的に組み立てられる状態ではなかった。思考力は完全に低下し、自分が何をしたいのか、どう話せばいいのかすら考えられない。

そんな私を支えてくれたのは、父だった。

父は私の隣に座り、面接で何を話すべきか、言葉を一つひとつ一緒に考えてくれた。

「ここはこう答えるんだ」「この質問が来たら、こう言い換えるんだ」

夜遅くまで、何度も、何度も面接の練習を繰り返した。私が面接の場で口にした論理的な受け答えは、私の思考ではなく、父が私のために必死に組み上げてくれた防弾チョッキのような言葉たちだった。

そして、運命の出会いが訪れる。

障害者雇用の合同企業説明会「クローバー」の会場。数ある企業のブースが並ぶ中で、私は大成建設のブースに足を止めた。

そこで出会った面接担当者との会話が、私の人生の歯車を大きく動かした。

幼少期にてんかんの既往があること、体調の波があることを恐る恐る口にした私に対し、その担当者は穏やかに言った。

「実は、私の弟も昔、てんかんを持っていたんですよ」

その一言を聞いた瞬間、凍りついていた私の心がほどけるような感覚がした。

病気や障害を「リスク」として排除するのではなく、同じ痛みを身近で知っている人間として、私の話に真摯に耳を傾けてくれたのだ。中高大と続けてきたテニスの部歴、父と作り上げた面接の言葉、そして何よりその担当者との温かい出会いによって、私は選考を通過していった。

大成建設から内定の知らせを受け取った時、胸の底からこみ上げてきたのは、純粋で大きな喜びだった。

あんなに荒れ果て、学年ビリを取り、死にたいと泣き叫んでいた自分が、大企業の内定を掴み取ったのだ。

これですべてが報われる。ここから私のまともな人生が始まるのだと、その時は本気で信じていた。

  1. 22歳、主治医が突きつけた「年金証書」

だが、その歓喜の裏で、私の精神の堤防はすでに決壊していた。

内定を取ったという事実は、私の病気が治ったことを意味しない。むしろ、就活というプレッシャーを突破するために、残されていた最後の生命力をすべて使い果たした抜け殻の状態だった。

通院していた精神科の診察室で、主治医は私の姿をじっと見つめていた。

内定を掴んだはずの目の前の患者が、今にも粉々に崩れ落ちそうな極限の危機に瀕していることを、プロの目は見逃さなかった。

「実優さん、障害年金の申請をしましょう」

先生はそう切り出した。

当時の私は、障害年金という制度の重みも、それが自分の人生に何を意味するかも、ほとんど理解できていなかった。「死にそうだから年金が欲しい」と自ら動いたわけでもない。ただ、思考が働かない頭のまま、信頼する主治医に勧められるがままに書類を用意し、手続きを進めた。

主治医が年金機構に提出した診断書は、私の幼少期からのてんかん、ASDとADHDの特性、そして張り詰めた糸が切れて崩壊寸前にある生活実態を、的確な医学的論理で描き出したものだった。

やがて、自宅のポストに一通の封筒が届いた。

「障害基礎年金2級」の決定通知書だった。

机の上に並んだ、大成建設の内定通知書と、国から届いた障害年金2級の証書。

一方は、企業で社会人として羽ばたくための切符。

もう一方は、自立して生活することが困難であり、国の公的扶助が必要であるという重度の障害認定。

矛盾する二枚の書類を目の前にして、私は二十二歳を迎えていた。

社会への扉が開いた瞬間に、同時に手渡された重度障害者としての証明。

この歪で過酷な現実を抱えたまま、私は大成建設へと入社し、やがて訪れる「二年間の休職」という本当の地獄へと足を踏み入れていくことになる。

第4章:失われた自尊心と、四日に一回のコンビニ

――人事部でのミス、スキャンだけの日々、そして私生活の瓦解

  1. 飛ばしてしまう項目、数字の合わない書類

内定の喜びも束の間、大成建設に入社した私を待っていたのは、学生時代とは全く違う「社会の壁」だった。

配属されたのは、人事部のダイバーシティ部門だった。障害者雇用や多様性を推進する部署であり、周囲の理解にも恵まれていたはずだった。しかし、私の脳の機能障害は、実務の現場で容赦なく牙を剥いた。

経理関連の書類を作成すれば、数字のミスが毎日のように頻発した。確認したつもりでも、ADHDの不注意によって数字が入れ替わり、計算が狂う。

さらに致命的だったのは、「書類の必須項目を全て埋めることができない」という特性だった。画面や紙に並ぶチェックボックスや記入欄を見ていると、どうしても特定の項目が視界から抜け落ち、無意識に飛ばしてしまうのだ。

「なぜ、ここが空欄のまま提出できるの?」

上司や先輩の困惑した声に、私はただ縮こまるしかなかった。注意しようと念じれば念じるほど頭は真っ白になり、同じミスを繰り返した。

学生時代は「勉強」という決められたルールの中で点数を取ることができた。だが、マルチタスクと細かな確認が無限に続くオフィスワークの現場で、私の脳は完全に処理能力を超えていた。

  1. コロナ禍、部署異動、スキャナーの光

追い打ちをかけたのが、新型コロナウイルスの蔓延だった。

世の中の環境が激変し、テレワークや業務プロセスの変化が押し寄せる中、私は別の部署へと異動になった。

そこで私に割り振られた主な仕事は、「紙の書類をひたすらスキャンしてデータ化する作業」だった。

朝から夕方まで、複合機の前に立ち、書類をセットしてはボタンを押し、スキャナーの青白い光が往復するのを見つめる。

誰にでもできる単純作業。ミスを起こさないための会社側の配慮だったのかもしれない。だが、その配慮が、私のプライドと自尊心をじわじわと削り取っていった。

中大高校に入り、会計学科を出て、必死に勉強してきたはずの自分が、一日中スキャナーの前に立ち尽くしている。

同年代の同僚たちが責任ある仕事を任され、キャリアを積んでいく横で、私はただ紙をめくり、機械の音を聞いているだけ。

「自分は何のためにここにいるのだろう」

「自分には、この程度の価値しかないのだろうか」

スキャナーの光を見るたびに、胸の奥底から惨めさと自己嫌悪がせり上がってきた。

  1. 四日に一度のコンビニと、会社の温かい手紙

限界だった。

心身のエネルギーが完全に底をつき、私は出社することができなくなった。二年間に及ぶ、長い長い休職生活の始まりだった。

休職中の記憶は、灰色の霧に包まれている。

ベッドから起き上がることすらできない。重力に押し潰されたように体がシーツに張り付き、一日中天井を見つめて過ごした。

外出ができるのは、四日に一度だけ。

生きるために必要な食料を買いに、夜中に這うようにして近くのコンビニへ向かう。それ以外の日は、カーテンを閉め切った薄暗い部屋で、ただ横たわっていた。

「もう会社を辞めよう」

何度もそう思った。自分を責め続ける毎日に耐えられず、「いっそ起業して、自分の力で自由に生きた方が楽なのではないか」と、現実味のない考えが頭をよぎることもあった。

だが、大成建設という会社は、倒れた私を切り捨てなかった。

休職中も最低限の給与がきちんと振り込まれ、私の生活の生命線は守られていた。そして定期的に、会社から温かい手紙が自宅に届き続けた。

「焦らなくていいからね」「体調を一番に考えて、ゆっくり休んでください」

手紙の文字を読むたびに、会社の誠実さと温かさが胸に染みた。それと同時に、「こんなによくしてもらっているのに、何も返せない自分」への申し訳なさが募り、布団の中で声を殺して泣いた。

  1. 衝動の果ての瓦解――結婚、不倫、離婚

休職の暗闇と並行して、私の私生活もまた、激しい感情の嵐によって粉々に砕け散っていった。

この時期、私は結婚し、そして離婚を経験した。

双極性の波による激しい躁状態や衝動性が、対人関係をめちゃくちゃに掻き乱していた。理性ではいけないと分かっていても、感情のブレーキが利かない。孤独を埋めるように不倫に走り、それが引き金となって結婚生活は破綻した。

だが、家庭を壊してまで飛び込んだはずの不倫相手とも、やがて別れが訪れた。

残されたのは、壊してしまった人間関係の残骸と、取り返しのつかない罪悪感、そして耐えがたいほどの虚無感だけだった。

仕事もまともにできない。

大切な人を傷つけ、結婚も維持できない。

不倫相手にも去られ、部屋で一人、寝たきりで天井を見つめている。

「生きていても、もう何ひとつ楽しいことなんてない」

ベッドの上で、私は心底そう思った。

何のために命を繋ぎ止めているのか、何のためにこの苦痛を耐えているのか、生きている意味が完全に消え失せていた。

どん底の底で、私はただ、時間が過ぎていくのを呼吸だけしてやり過ごしていた。

第5章:凪(なぎ)の海へ

――朝起こしてくれた人、父の交渉、そして掴み取った寛解

  1. 薬の中断と、加速した崩壊

私の精神が崩壊した背景には、常に「処方」と「体質」の激しいせめぎ合いがあった。

かつて別の病院に通っていた頃、私はADHDの治療薬であるコンサータを最大用量の72mgまで処方されていた時期がある。過集中と引き換えに食欲は完全に失われ、体重は三十七キロまで激減した。骨と皮ばかりになり、衰弱していく私の姿を見かねた母が、大学四年の時に必死で名医を探し出し、現在の主治医へと転院させたのが今の治療の始まりだった。

先生は慎重に薬を見極め、私の脳の波を整えてくれていた。

しかし、その均衡を自ら崩してしまう出来事が起きた。「結婚と、妊娠への希望」だった。

妊娠や胎児への影響を考慮し、気分安定薬であるセレニカRを完全に中止したのだ。

それが、引き金を引くことになった。

感情の防波堤を失った私の脳は、一気に激しい躁状態へと突き進んだ。衝動を抑えるブレーキが完全に壊れ、理性を失った私は不倫へと走り、結果として結婚生活を自らの手で破壊してしまった。

離婚が成立した時、私には帰る場所がどこにも残されていなかった。

家族からも「もう帰ってくるな」と突き放され、完全に孤立した。頼れる実家もなく、心身も生活も破綻し、文字通り路頭に迷う寸前だった。

  1. 二年間のシェルターと、整っていく朝

絶望の淵にいた私を救い上げてくれたのは、大学時代の元彼だった。

私たちは当時付き合っていたわけではない。だが彼は、行き場を失い崩れかけていた私を自分の家に迎え入れ、住まわせてくれたのだ。

その同居生活は、二年間に及んだ。

彼は何か特別な説教をするわけでもなく、ただ淡々と、私の生活の破片を拾い集めてくれた。

朝になると、起き上がれない私を毎日声をかけて起こしてくれた。決まった時間に起き、食事を取り、決まった時間に眠る。

てんかんや双極性障害を抱える脳にとって、最も強力な治療薬は「規則正しい生活リズム」そのものだ。彼の存在という安全なシェルターの中で、私の傷だらけだった神経は、少しずつ、少しずつ本来の落ち着きを取り戻していった。

彼が生活を支えてくれた二年間がなければ、私は間違いなく命を落としていたか、二度と社会に戻ることはできなかった。

生活基盤を立て直し、寛解への足がかりを掴んだ私は、やがてその場所を巣立ち、現在は一人暮らしを送れるまでに回復した。

  1. 涙の早退と、父の直談判

生活のリズムを取り戻し、二年間の休職を経て会社へ戻る日がやってきた。

だが、復帰の道もまた平坦ではなかった。

いざオフィスへ向かうと、会社のビルのエントランスに入るだけで、胸が激しく締め付けられ、目から涙がボロボロと溢れて止まらなくなった。過去のミス、スキャナーの前の惨めさ、迷惑をかけた同僚たちの視線――それらがフラッシュバックし、足がすくんで早退を繰り返す日々が続いた。

現場での限界を察し、再び動いてくれたのは父だった。

父は会社へ足を運び、担当者へ直接頭を下げて交渉してくれた。

「娘は会社に行こうとすると涙が止まらなくなってしまう。どうか、テレワークを中心に働かせていただけないだろうか」

会社はその申し出を受け入れ、在宅勤務を中心とした働き方を認めてくれた。

外からの過剰な刺激や対人の緊張を遮断できるテレワーク環境は、私の脳にとって最適な防空壕となった。

  1. 武器を見つける――年収六〇〇万の現在地

現在、私の処方は現在の主治医の緻密な調整によって完全に適合し、精神状態はかつてないほど穏やかな「寛解」を維持している。

コンサータとインチュニブで不注意と衝動を整え、セレニカRとラツーダで気分の激しい乱高下を抑え込み、レクサプロとリボトリールで不安と過敏さを和らげる。このパズルが正確に機能していることで、かつて人事部で連発していたようなケアレスミスは大幅に減少した。

そして何より、自分の「得意なこと」に業務の焦点を絞れるようになったことが大きかった。

数字の単純照合やチェック項目の確認は苦手でも、私には別の能力があった。

 論理的で整った文章を作成すること

 業務の手間を省くための、簡単な自動化システムを構築すること

 視覚的に分かりやすく洗練されたPowerPoint等の資料を作成すること

これらは、ASD特有の体系的なこだわりや論理的思考、そして中大や独学で培ってきた知性が自然と発揮できる分野だった。

会社もまた、私の苦手な部分で消耗させるのではなく、そうしたアウトプットの質を評価してくれるようになった。

二年間の休職、離婚、そして寝たきりの日々を経て、私は今、障害者雇用枠でありながら年収六〇〇万円という待遇をいただき、自立して生活を営んでいる。

かつて「生きていても何一つ楽しいことはない」と天井を見つめていた暗闇から、私は確かに、静かで穏やかな現実へと戻ってきたのだ。

エピローグ:生きることは、こんなにも平和だった

――主治医への感謝と、暗闇の中にいるあなたへ

  1. 凪(なぎ)の海から振り返る三十年

五歳の夜、意識を失って病室で血まみれになったあの日から、私の世界はずっと激しい嵐の中にあった。

眩しすぎる光に怯え、人混みに耐えかねて二時間泣き叫んだ子ども時代。

周囲の何気ない言葉を真に受けて学年最下位まで転落し、ウィルコムを握りしめて孤立した高校時代。

過食嘔吐と鬱の底で「死にたい」と繰り返しながら、大成建設の内定通知書と障害年金の証書を同時に受け取った二十二歳。

そして、書類のミスに震え、スキャナーの前で自尊心を失い、衝動で家庭を壊し、四日に一度しかベッドから出られなかった休職の二年。

あの頃の私にとって、「生きること」は耐え難い苦痛の連続であり、終わりの見えない拷問のようなものでした。

しかし今、三十歳を迎えた私は、自分の足で立ち、一人暮らしの部屋で穏やかな朝を迎えています。

激しい躁の万能感も、底知れぬ鬱の絶望も、私を狂わせることはもうありません。頭の中を満たしていた暴風雨は去り、目の前にはどこまでも穏やかな凪の海が広がっています。

「普通に朝が来て、夜眠り、穏やかに息ができる」

幸せに生きることがこれほどまでに素晴らしいことなのかと、三十歳になって初めて、身にしみて知ることができました。

これまでの人生の半分以上を病気の嵐の中で過ごしてきた分、ここからの人生は、今まで味わうことができなかった幸せを巻き返すためにも、前を向いて大切に歩んでいきたいと思っています。

  1. 処方という暗闇を歩くあなたへ

今、かつての私のように、精神疾患や発達障害の暗闇の中で身動きが取れなくなっている人がいるなら、これだけは伝えたいことがあります。

薬の調整は、本当に死ぬほど辛いです。

合わない薬で体が鉛のように重くなったり、体重が激減して骨と皮のようになったり、副作用に怯えながら過ごす日々は、途方もない恐怖と孤独が伴います。「一生このままなのではないか」と絶望する夜もあるはずです。

ですが、決して諦めないでほしいのです。

大切なのは、一人で抱え込まず、信頼できる医師を見つけることです。

そして、診察室では決して遠慮をせず、自分の心と体に起きている微細な変化を、細かくメモを取って素直に医師へ伝えてください。医師の指示を素直に聞きながら、自分の体の反応を二人三脚で根気強く観察し続けること。

精神の薬理パズルは、一朝一夕には解けません。何ヶ月、時には何年もかかる試行錯誤が必要です。

けれど、諦めずにパズルのピースを一つずつ合わせ続ければ、いつか必ず、自分の脳の波を穏やかに手なずけられる日がやってきます。

「生きるって、こんなにも平和なことだったんだ」

そう心から感じられる未来が、あなたのもとにも必ず迎えられるはずです。

  1. 最後に――主治医の先生へ

最後に、私の命の灯火を決して見捨てず、ここまで導いてくださった主治医の先生へ。

先生には、感謝の言葉しかありません。

コンサータで衰弱しきっていた私を受け入れ、てんかん、発達特性、双極性の波という複雑極まるパズルを、卓越した洞察力と緻密な処方で一つひとつ解きほぐしてくださいました。

先生が書いてくださった完璧な診断書が、二十二歳の私の生活を物理的に守り、先生の処方が、三十歳の私に「平和な心」を取り戻してくれました。

先生が救ってくださったのは、単なる一つの病気ではありません。

私の人生そのもの、そして人間としての尊厳を、先生は救ってくださいました。

この本が、同じように診察室で苦悩する全国の精神科医の先生方にとって、一人の患者の内側を照らす小さな灯台となることを。

そして何より、先生への心からの恩返しとなることを願って、筆を置きます。

本当に、ありがとうございました。