私が手話に出会って変わったこと
今回は、私のエピソードになりますが、手話に出会ったことで変わったことについてお話させてください。
私は人工内耳を装用しているため、装用しているときは全く聴こえないというわけではありません。
しかし、装用していても、健常者と同じように全て聴こえるということもありません。
自分は発話もできるため、他の人から見ると、聴こえにくいということが判断しづらいという状況です。
そのような生活をしている中で出会った手話について、お話したいと思います。
小学生までは
「きこえとことばのお教室」にて
小学生のときは、普通の小学校に通っていましたが、別の小学校にある、「きこえとことばのお教室」にも、週に1.2回程度、通っていました。
お教室内では、先生と聴こえに関する内容を話したり、学校生活などの雑談をしたりしていました。
先生とはほぼ、口話で話していましたが、先生もはっきり話してくれていたので、特にコミュニケーションに問題はありませんでした。「きこえとことばのお教室」の先生は皆大好きでした。
1ヶ月に1回程度、私と同じように聴こえない、聴こえにくい小学生の仲間たちが集まり、グループ活動もしていました。一緒にゲームをしたり、年に1回、12月に行われる発表会でやる劇や手話歌の練習をしたりしていたことを覚えています。
毎日通っていた普通の小学校では、あまり友達がいなく学校生活も楽しいと思えなかったため、「きこえとことばのお教室」に行くことが唯一の楽しみでした。なぜかというと、やはり同じ仲間がいる、ということ、先生も自分のことを理解してくれている、という安心感があったからだと思います。
普通の小学校にいる同級生は、全員耳が聴こえるということ、どこかで自分とは違う、という疎外感が非常にありました。小学校に入ったばかりのときはまだそうでもなかったので、放課後友達と遊ぶ時もありましたが、学年が上がるにつれて心も発達していくためなのか、みんなとだんだん話しづらくなりました。
地域の手話ダンス部にて
小学校に入る幼い頃から小学校高学年(おそらく・・)まで数年間、地域の手話ダンス部に入って手話歌を披露する、という活動を行っていました。特に発表会ではかわいい衣装をきて手話ダンスをしていました。
手話には小さいときから触れてはいましたが、手話歌をするために手話を覚えるだけなので、日常生活会話まで覚えることはありませんでした。
ですが、小さいときから発表する、という機会を作ってくれた母には感謝をしています。
中学生になってから本格的に手話を使い始めた
中学・高校はろう学校へ
小学校は普通の小学校だったため、このまま中学校も地域の中学校に通うと、私も親もそう思っていました。
しかし、突然それは変わりました。それが小学校6年もあと半年で終わる・・という時期でした。
ふと親に、「ろう学校に行きたい」と自分から言ったのです。当然親も、地域の中学校にそのまま進学すると思い込んでいたので驚きでした。私もまさか、自分の口から言うことになるとは思っていませんでした。
親も最終的には理解してくれ、一緒に授業見学などをし、最終的にろう学校に行くことを決めました。
最初は何も分からなかった
無事にろう学校に入学ができ、初めてのろう学校生活がスタートしました。
しかし、ろう学校にいる生徒のほとんどは手話を使っていました。私は当時、自己紹介の自分の名前が言える・・だけのレベルでしたので、ほとんど手話ができない状態でした。
同級生の会話も分からない状態だったため、手話を入学してから本格的に覚えることになりました。
友達や先生の手話を真似た
手話を本格的に覚えたと話しましたが、手話の本を買って勉強‥はほぼしていませんでした。
先生が授業で話すときに使っている手話を真似たり、友達が話しているときを見たり・・と、毎日手話を見る生活だったので、少しずつ覚えることができました。
特に、授業の時に先生が表現している手話で初めて見る手話の単語があったとき、見えないように机の下でこっそり、何度も手を動かして真似をしていたことを覚えています。
記憶が曖昧ですが、指文字も順番に覚えていった、ということではなく、手話を覚えていくうちに指文字もあとから覚えていった、と思います。最初から指文字だけ覚えるのもしんどいですし、指文字はあとから必要なときに少しずつ覚えていくことができると思いました。
手話は少し覚えられたけど・・・
ろう学校に入ったおかげで、手話を少しずつ覚えることができました。しかし、手話は覚えたけれど、その分悩んでいたことがありました。
ろう学校に通っているときは、先生とお話する以外、声を出すことが減っていきました。(ですが、相手に伝わりやすいので口だけは動かしていました。)
手話を使っているときは、手話だけに集中したい、声と一緒にお話するのは苦手だということもありました。
しかし、その分自宅で親と話をするとき、親に「話し方(発音など)が前と比べて下手になった?」と言われてしまうことがありました。やはり声を出す機会がないと、下手になってしまうことに気付かされました。
また、長期休み(春休み・夏休み・冬休み)に入ると、ろう学校に行く機会が減ってきます。(部活は除く)
そのため、手話を見る機会も、手話を使う機会も減ってしまうため、手話を忘れてしまわないか・・という不安がありました。特にろう学校に入ったばかりのときは強く感じました。
実際、休み明けには手話を見ながら思い出していき、自分の頭の中で復習をするという生活だったのを覚えています。スポーツや英語など全てそうですが、日常的に使っていかないと忘れていってしまうと思いました。
ろう学校を振り返って
ろう学校は、中学生と高校生の6年間通いました。
色々な思い出がありますが、やはり行って良かったという一言に尽きます。
授業も少人数で先生のお話が理解できること、先生にすぐに質問がしやすい、ということがまずあります。地域の中学や高校に入っていたとしたら、やはり授業についていけなかったかもしれません。おそらくクラスの中で聴こえにくいのは自分だけだったと思いますし、自分だけが分からなくても、恥ずかしくて後から質問をすることがきっとできなかったと思います。
私は友達がたくさんできた、とまではありませんでしたが、今でも時々連絡を取ったり、仲良くしている友達もいます。同じ聴こえない、聴こえにくい仲間と一緒に学校生活を送ることができたことは、私にとって大きな成長だったと思います。
大学時代は手話が大事な存在だった
入学式のときに
中学と高校の6年間、ろう学校だったため、ほぼ健聴者に囲まれての学生生活は久しぶりでした。
初めての大学生活は楽しみもありましたが、やはり授業についていけるか、という不安の方が一番大きかったです。
入学式のとき、大学の学科の先生に時間を少しいただき、自分の障がいについて少し説明しました。自分のことを説明する大切さは、ろう学校にいるときに授業で色々と先生のお話から学んできました。
そのおかげで学科の同級生と話すときはゆっくり話してくれたり、仲良い友達もできたりしました。
自分の障がいのことを話すことはかなり勇気がありましたが、その経験は社会人になった今でも活かすことができていると思います。
自分はやはり聞こえにくいんだと感じた
授業では、人工内耳を装用していますが、全て聞き取れる、ということは難しかったため、情報保障を受けていました。受けていた内容は、ノートテイク、パソコンテイク、手話通訳です。私が通っていた当時は、情報保障を一生懸命に取り組んでくれていた支援室の方々がいたので、感謝の気持ちしかありませんでした。情報保障があることは当たり前ではない、という気持ちをもって、授業に取り組みました。
その中でも、自分はやはり聴こえにくいんだと感じたときがありました。それはゼミの授業です。ゼミの授業では、主に複数のグループでディスカッションをしたり、ミーティングをしたり、という機会も多くありました。
1対1と個人でお話をする場合は問題なくお話ができますが、3人以上でお話があると内容がもう分からなくなることがほとんどです。その時、手話通訳者がいた時はその内容を教えてくれたので、私も話についていくことができました。
もしも手話を覚えていなかったらどうなっていたのだろう・・と思っていたので、手話の有り難みを感じることができました。手話通訳者にも感謝の気持ちを伝えたいです。本当にありがとうございました。
手話サークルで交流の幅が広がった
サークルは手話サークルに入りました。学内の手話サークルでは、文化祭で手話歌を披露したり、昼休みを活用して手話を勉強したりという活動が主でした。
私が手話サークルの活動で思い出に残っていることは、手話サークルのイベントの一つ、交流会でした。交流会では、他の大学の手話サークルの人たちと交流をしたり、ゲームをしたり、という活動です。私は大学に入るまでは積極的に友達を作る、ということが苦手だったのですが、交流会を通して、多くの友達に出会うことができました。今でも時々連絡を取り合っている友達もいます。
手話のおかげで友達も、視野も非常に広げることができたので、私にとっても良い経験になりました。
社会人の今
同じ聴こえない、聴こえにくい会社の仲間とランチなどできる
私が働いている職場には、私と同じく聴こえない、聴こえにくい仲間も多くいます。
部署は異なりますが、時々ランチで手話を使っての話もできるので、気分転換になります。
仕事で疲れて一人で昼休みを過ごすことのほうが多いですが、時々誰かとご飯を食べたい、という気持ちにもなるので、ランチができる仲間がいる、ということは幸せなことだなと思いました。
ですが、コロナ禍もありここ2年間はランチを誰かとする機会がかなり減り、とても寂しいです。
いつかまた、コロナを気にせずマスクを外して堂々と、ランチが楽しくできるときが来ると信じていたいです。
手話に興味を持ってくれる人がいると嬉しい気持ちになる
職場ではほぼすべて、口話で職場の人とコミュニケーションをとっています。
ですが、予め聴こえにくい、ということをできるだけ部署の皆に伝えるようにしています。今はコロナ禍でもあり、マスクが欠かせないので、なおさら説明を丁寧にするように心がけています。
そのためか、手話を覚えたい・・と言ってくれる方もいます。空いている時間に時々手話を教えることもありました。小さなことですが、手話を通して職場の人と仕事以外で接することができることは有り難いと感じました。
おわりに
社会人になったこと、コロナ禍もあり、人と会う機会が減ってしまったこともあり、手話を使う機会が減ってしまいました。日常生活程度の会話ならまだできますが、ろう学校のときと比べると上手く話すことができていないと思います。
ちなみに、私の旦那も同じく人工内耳を装用しており、手話と口話の両方で話をしていますが、お互いにまだ聴こえるので口話の方が多くなっています。
私もまだまだ知らないことが沢山あり、初心者レベルだと思っていますので、もっと手話を学んでいきたいです。
凸凹フレンズのブログを見てくれている皆様も、これから一緒に勉強をしていきませんか。
最後まで私の手話のエピソードを聞いていただき、ありがとうございました。
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